「今でも、僕をすきなのかい」
太宰治 斜陽
乱暴な口調であった。
「僕の赤ちゃんが欲しいのかい」
私は答えなかった。
岩が落ちて来るような勢いでそのひとの顔が近づき、遮二無二(しゃにむに)私はキスされた。性慾(せいよく)のにおいのするキスだった。私はそれを受けながら、涙を流した。屈辱の、くやし涙に似ているにがい涙であった。涙はいくらでも眼からあふれ出て、流れた。
また、二人ならんで歩きながら、
「しくじった。惚(ほ)れちゃった」
とそのひとは言って、笑った。
けれども、私は笑う事が出来なかった。眉(まゆ)をひそめて、口をすぼめた。
仕方が無い。
言葉で言いあらわすなら、そんな感じのものだった。私は自分が下駄(げた)を引きずってすさんだ歩き方をしているのに気がついた。
「しくじった」
とその男は、また言った。
「行くところまで行くか」
「キザですわ」
「この野郎」
上原さんは私の肩をとんとこぶしで叩(たた)いて、また大きいくしゃみをなさった。
ああ、何かこの人たちは、間違っている。しかし、この人たちも、私の恋の場合と同じ様に、こうでもしなければ、生きて行かれないのかも知れない。人はこの世の中に生れて来た以上は、どうしても生き切らなければいけないものならば、この人たちのこの生き切るための姿も、憎むべきではないかも知れぬ。生きている事。生きている事。ああ、それは、何というやりきれない息もたえだえの大事業であろうか。
太宰治 斜陽
戦闘、開始、恋する、すき、こがれる、本当に恋する、本当にすき、本当にこがれる、恋いしいのだから仕様が無い、すきなのだから仕様が無い、こがれているのだから仕様が無い、あの奥さまはたしかに珍らしくいいお方、あのお嬢さんもお綺麗(きれい)だ、けれども私は、神の審判の台に立たされたって、少しも自分をやましいとは思わぬ、人間は、恋と革命のために生れて来たのだ、神も罰し給(たま)う筈(はず)が無い、私はみじんも悪くない、本当にすきなのだから大威張り、あのひとに一目お逢いするまで、二晩でも三晩でも野宿しても、必ず。
太宰治 斜陽
戦闘、開始。
太宰治 斜陽
いつまでも、悲しみに沈んでもおられなかった。私には、是非とも、戦いとらなければならぬものがあった。新しい倫理。いいえ、そう言っても偽善めく。恋。それだけだ。ローザが新しい経済学にたよらなければ生きておられなかったように、私はいま、恋一つにすがらなければ、生きて行けないのだ。イエスが、この世の宗教家、道徳家、学者、権威者の偽善をあばき、神の真の愛情というものを少しも躊躇(ちゅうちょ)するところなくありのままに人々に告げあらわさんがために、その十二弟子(でし)をも諸方に派遣なさろうとするに当って、弟子たちに教え聞かせたお言葉は、私のこの場合にも全然、無関係でないように思われた。
私は、お母さまはいま幸福なのではないかしら、とふと思った。幸福感というものは、悲哀の川の底に沈んで、幽かに光っている砂金のようなものではなかろうか。悲しみの限りを通り過ぎて、不思議な薄明りの気持、あれが幸福感というものならば、陛下も、お母さまも、それから私も、たしかにいま、幸福なのである。
太宰治 斜陽
あれから十二年たったけれども、私はやっぱり更級日記から一歩も進んでいなかった。いったいまあ、私はそのあいだ、何をしていたのだろう。革命を、あこがれた事も無かったし、恋さえ、知らなかった。いままで世間のおとなたちは、この革命と恋の二つを、最も愚かしく、いまわしいものとして私たちに教え、戦争の前も、戦争中も、私たちはそのとおりに思い込んでいたのだが、敗戦後、私たちは世間のおとなを信頼しなくなって、何でもあのひとたちの言う事の反対のほうに本当の生きる道があるような気がして来て、革命も恋も、実はこの世で最もよくて、おいしい事で、あまりいい事だから、おとなのひとたちは意地わるく私たちに青い葡萄(ぶどう)だと嘘(うそ)ついて教えていたのに違いないと思うようになったのだ。私は確信したい。人間は恋と革命のために生れて来たのだ。
太宰治 斜陽
待つ。ああ、人間の生活には、喜んだり怒ったり悲しんだり憎んだり、いろいろの感情があるけれども、けれどもそれは人間の生活のほんの一パーセントを占めているだけの感情で、あとの九十九パーセントは、ただ待って暮らしているのではないでしょうか。幸福の足音が、廊下に聞えるのを今か今かと胸のつぶれる思いで待って、からっぽ。ああ、人間の生活って、あんまりみじめ。生れて来ないほうがよかったとみんなが考えているこの現実。そうして毎日、朝から晩まで、はかなく何かを待っている。みじめすぎます。生れて来てよかったと、ああ、いのちを、人間を、世の中を、よろこんでみとうございます。 はばむ道徳を、押しのけられませんか? M・C(マイ、チェホフのイニシャルではないんです。私は、作家にこいしているのではございません。マイ、チャイルド)
太宰治 斜陽
世間でよいと言われ、尊敬されているひとたちは、みな嘘つきで、にせものなのを、私は知っているんです。私は、世間を信用していないんです。札つきの不良だけが、私の味方なんです。札つきの不良。私は、その十字架にだけは、かかって死んでもいいと思っています。万人に非難せられても、それでも、私は言いかえしてやれるんです。お前たちは、札のついていないもっと危険な不良じゃないか、と。 おわかりになりまして?
太宰治 斜陽
もう一度お逢いして、その時、いやならハッキリ言って下さい。私のこの胸の炎は、あなたが点火したのですから、あなたが消して行って下さい。私ひとりの力では、とても消す事が出来ないのです。とにかく逢ったら、逢ったら、私が助かります。万葉や源氏物語の頃(ころ)だったら、私の申し上げているようなこと、何でもない事でしたのに。私の望み。あなたの愛妾(あいしょう)になって、あなたの子供の母になる事。 このような手紙を、もし嘲笑(ちょうしょう)するひとがあったら、そのひとは女の生きて行く努力を嘲笑するひとです。女のいのちを嘲笑するひとです。私は港の息づまるような澱(よど)んだ空気に堪え切れなくて、港の外は嵐(あらし)であっても、帆をあげたいのです。憩(いこ)える帆は、例外なく汚い。私を嘲笑する人たちは、きっとみな、憩える帆です。何も出来やしないんです。
太宰治 斜陽
さいしょに差し上げた手紙に、私の胸にかかっている虹の事を書きましたが、その虹は螢(ほたる)の光みたいな、またはお星さまの光みたいな、そんなお上品な美しいものではないのです。そんな淡い遠い思いだったら、私はこんなに苦しまず、次第にあなたを忘れて行く事が出来たでしょう。私の胸の虹は、炎の橋です。胸が焼きこげるほどの思いなのです。麻薬中毒者が、麻薬が切れて薬を求める時の気持だって、これほどつらくはないでしょう。間違ってはいない、よこしまではないと思いながらも、ふっと、私、たいへんな、大馬鹿の事をしようとしているのではないかしら、と思って、ぞっとする事もあるんです。発狂しているのではないかしらと反省する、そんな気持も、たくさんあるんです。でも、私だって、冷静に計画している事もあるんです。本当に、こちらへいちどいらして下さい。いつ、いらして下さっても大丈夫。私はどこへも行かずに、いつもお待ちしています。私を信じて下さい。
太宰治 斜陽
逢(あ)えばいいのです。もう、いまは御返事も何も要りません。お逢いしとうございます。私のほうから、東京のあなたのお宅へお伺いすれば一ばん簡単におめにかかれるのでしょうけれど、お母さまが、何せ半病人のようで、私は附(つ)きっきりの看護婦兼お女中さんなのですから、どうしてもそれが出来ません。おねがいでございます。どうか、こちらへいらして下さい。ひとめお逢いしたいのです。そうして、すべては、お逢いすれば、わかること。私の口の両側に出来た幽(かす)かな皺(しわ)を見て下さい。世紀の悲しみの皺を見て下さい。私のどんな言葉より、私の顔が、私の胸の思いをはっきりあなたにお知らせする筈でございます。
太宰治 斜陽
私、不良が好きなの。それも、札つきの不良が、すきなの。そうして私も、札つきの不良になりたいの。そうするよりほかに、私の生きかたが、無いような気がするの。あなたは、日本で一ばんの、札つきの不良でしょう。そうして、このごろはまた、たくさんのひとが、あなたを、きたならしい、けがらわしい、と言って、ひどく憎んで攻撃しているとか、弟から聞いて、いよいよあなたを好きになりました。あなたの事ですから、きっといろいろのアミをお持ちでしょうけれども、いまにだんだん私ひとりをすきにおなりでしょう。なぜだか、私には、そう思われて仕方が無いんです。そうして、あなたは私と一緒に暮して、毎日、たのしくお仕事が出来るでしょう。小さい時から私は、よく人から、「あなたと一緒にいると苦労を忘れる」と言われて来ました。私はいままで、人からきらわれた経験が無いんです。みんなが私を、いい子だと言って下さいました。だから、あなたも、私をおきらいの筈(はず)は、けっしてないと思うのです。
太宰治 斜陽
「よくわからないけど、どうせ直治の師匠さんですもの、札つきの不良らしいわ」 「札つき?」 と、お母さまは、楽しそうな眼つきをなさって呟(つぶや)き、 「面白い言葉ね。札つきなら、かえって安全でいいじゃないの。鈴を首にさげている子猫(こねこ)みたいで可愛らしいくらい。札のついていない不良が、こわいんです」 「そうかしら」 うれしくて、うれしくて、すうっとからだが煙になって空に吸われて行くような気持でした。おわかりになります? なぜ、私が、うれしかったか。おわかりにならなかったら、……殴るわよ。
太宰治 斜陽
いまふっと思った事でございますが、あなたは、小説ではずいぶん恋の冒険みたいな事をお書きになり、世間からもひどい悪漢のように噂をされていながら、本当は、常識家なんでしょう。私には、常識という事が、わからないんです。すきな事が出来さえすれば、それはいい生活だと思います。私は、あなたの赤ちゃんを生みたいのです。他のひとの赤ちゃんは、どんな事があっても、生みたくないんです。それで、私は、あなたに相談をしているのです。おわかりになりましたら、御返事を下さい。あなたのお気持を、はっきり、お知らせ下さい。
太宰治 斜陽